ちょろっと読んだ糸井重里さんのinterviewの中に、とても同感できる"言葉"が多くて、非常に簡潔かつ的確に事象を表現しているな、と正直感嘆しました。流石です。
目に見えないところに共同体を作って、神ならぬ人間にはできない理想を置いて、それに合わないものを自分の正論を武器に叩く人が増えた。「そんなことを言う人とは思わなかった」型の非難も跋扈(ばっこ)している。批判を恐れて萎縮する人も増えました。
例えば、「かわいそう」って言えば、正義に思われるから勝ち。でも「かえってかわいそう」と返せば、そっちが勝つんです(笑)。「果たして、それが幸せでしょうか」とか何とか言えば、それが正論になるんですよね。
暴かなくていいことを平気で暴く。言論の相対的な価値が下がって、模範回答の応酬か、効果的に傷つけ合うことしかしていません。
喋るという行為は、息を出して声帯を震わせながら出す音の記号の連なりなので、肉体が入っています。でも、キーボードの上で指を動かすだけの発言では、たぶんロジックが変わっている。ツイッターを”生”の意見として捉えてしまうと、誤解が起きると思います。
誰もがインターネットでは1票持っているから、ネットに張りついて、語る。その結果、足元を見ながら幸せになることよりも、目先の論争に勝つことが目標になってしまった。本当に誰にでも大切なのは、少しでも希望を持っていられるかどうか、なのにね。
正に実感ですよね。よくわかる気がします。
[元記事]
・「テレビ」も「ネット」も年を取ってしまった | GALAC | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準 [2018/07/07]