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Last-modified: 2003-12-01 (月) 15:50:42 (7450d)
Mobile suit Gundam1995/03/03
「機動戦士ガンダム」は、一人の少年が新しい人類の礎として成長する過程を描いた、変革の物語である。 しかしこの少年は、優秀な軍人になるだけでは留まらなかった。その変化の確かな兆しが見えたのは、彼の初恋の相手、マチルダ・アジャンが死んだ時であった。アムロは敵と激しく交戦しながらも、マチルダの最期を見届けていた。視覚ではなく、感覚で。 New Typeとは何だろうか。 New Typeは争いのない世界を創造できる、とダイクンは言った。戦いに疲れた人々は、New Typeの出現に望みを託し、そしてシャアやアムロなど、New Typeなのでは?と思われる者が現れた。あるいは、現れて欲しいという人々の願望がそう思わせたのかもしれない。しかし折りしも、時代は戦争の只中であった。彼らNew Typeの能力は戦争の道具として使われた。皮肉にもその能力は、戦争において非常な効力を発揮してしまった。「New Type能力が戦争に役立つ」ということを、軍隊に、あるいは人々にわからせてはならなかったのである。 「将来、人類を皆New Typeにするためには、現在New Type能力を持つ者をしっかり管理し、Old Typeの人間にNew Type能力を恐れさせてはならない。」シャアはこう考え、New Type能力を周囲に有りのままに示すアムロを殺そうとするのである。 このままでは、戦争の道具としての利用価値が非常に高いNew Type能力を持つ者は、人々に危険視され、人類全体がNew Typeになる事などないのではないかと思われた時、アムロは自分の意識の中のララァに導かれ、彼の能力は人の命を救う事に威力を発揮したのである。 そして、ここで物語は終わっている。この先がどうなったのかは自分で考えるしかない。というより、どうしていくべきなのかを、我々は考えなくてはならないのだろう。 考えてみれば、この物語の主人公アムロは、悲しみの連続の中で成長していっている。彼だけではない。シャア、ララァ、セイラ、ミライなど、New Typeの素質を持つ者は皆、何らかの悲しみを抱えて生きている人間ばかりだ。幸せな者など一人もいない。 「F」という六田登原作のコミックの中でも同じようなセリフがあった。「不幸が奴を速くする」というセリフだった。レーサーである主人公は不幸に見舞われ、それを乗り越える度に、レーサーとして大きくなり、速くなっていくのである。 汝、不幸は主人公の条件ということなかれ! 僕はいろいろなものから影響を受けて生き方を探しているが、「機動戦士ガンダム」は非常に見ごたえがあった。ずっしりきた。もちろん、物語と現実とを混同させてはならないが、この物語は僕の思想を大きく変えたと思う。 余談だが、「ガンダム」を見て気に入った人は「イデオン」など、他の冨野喜幸作品を見てみると、作者の考え方が多面化されて、一層おもしろいかもしれない。 |