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電脳硬化症気味な日記です。まとまった情報は wiki にあります。

2016.9.21 (Wednesday)

at 22:16  

無関心という異教   [散文・小論]

 「無関心という異教」という言葉が心に刺さった。
 我が身を振り返ると、確かに"無関心"を崇拝しているフシがある。近所付き合いも、会社付き合いもできるだけ避けているし、他国の貧困問題どころか、国内の待機児童問題やヘイトスピーチなどにも全く関心が無い。自分の興味の範囲外ならスッパリ切り落とす生活を、ここ何年も続けている。
 情報過多なんだよ、面倒くさいんだよ、とか自分に言い訳しているが、それだけではないような気もする。

 最近、「この世界の片隅に」という漫画を読んだ。前半は戦時の生活がcomicalに描かれつつ、後半、終戦に向けて苛烈さが訴えかけてくる。昭和の戦争を知らない私にも、ある程度わかった気にさせるマンガだった。
 しかし、私の心に最も残ったのは、戦争の悲しさでも現代平和の尊さでもなく、戦時に生きる人々の互助的な繋がり、隣人や他人を思いやる心と行動だった。どんなに厳しい状況にあっても、誰かを助けようとする、気遣おうとする。そこかしこに描かれていた。
 こういう気持ちや行動は、今の自分には見る影もない。隣人さえも、情報・データの1つとして整理してしまっており、気持ちや行動には損得勘定のフィルターがどうしてもかかる。
 まさに、「平和を貪り」「豊かさを失った」という状態が、今の私だろうと感じた。

 そしてそれは、私が特殊な例ではないだろうとも思う。今の20代・30代はどうか…。30年後、50年後にはどのようなモラルが一般化しているかを想像すると、イイ気分にはならない。
 「北斗の拳」では、暴力的な世界を村人たちが助け合って生きているけれども、それさえ楽観的な想像であり、そんなcommunityは生まれない気がする。

[元記事]
宗教指導者が集結・対話 法王や天台座主ら平和呼びかけ:朝日新聞デジタル [2016/09/21]


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